最近聴いた曲

賛美歌

えーっと

今回は予定通り「賛美歌」についてなんだけど、

詳しく説明しなくても知ってるよね?

じゃあ、そういうことで・・・

次回は「蛍雪の功」です


2005/10/26 追記 というより 書き直し

それじゃ、もう一回やり直しー。

賛美歌ってのは、【岩波書店 広辞苑第五版】によると、
『キリスト教で神または救い主を讃美する歌』 だそうで。
まあ、このくらいはだいたい理解してるよね? 礼拝などで歌われるアレだね。
辞書の意味にプラスして言うと、プロテスタントで歌うのが「讃美歌」で、カトリックで歌うのは「聖歌」なんだ。プロテスタントの中でも宗派によっては「聖歌」を歌ったりするらしいけど、カトリックは「讃美歌」歌わないんだって。
他にもカトリックとプロテスタントでの呼び名の違いってあるよね? 神父と牧師、ミサと礼拝とか、ね。じゃあさ、カトリックが「赤」でプロテスタントが「白」の物ってな~んだ? のほほんさん
だったら簡単だよね?

話を戻して・・・
賛美歌の曲は、賛美歌作家が作ったものだけじゃなくて、世界各地の民謡を原曲とするものがいくつもあるんだ。イギリス民謡、スコットランド民謡、パキスタン民謡・・・などなど。

日本で初めて賛美歌が歌われたのは今から450年ほど前。
その後、禁教令が発布されて、キリスト教弾圧と迫害の時代。
1873年(明治6年)政府がキリスト教を解禁して、このとき初めて賛美歌が日本語に翻訳されたんだ。

いうまでもなく、賛美歌は西洋音楽なんだけどさ、明治初期の一般ぴぃぽーは西洋音楽なんてまったく聴いたことがなかったわけさ。そんな人達に西洋音楽を浸透させるために、賛美歌が一役買ったのは間違いないだろうね。宗教関係の音楽だから、浸透範囲は狭かったろうけど。

西洋音楽の一般への浸透ってことで言えば、そこで絶大な効力を発揮したのは、まぎれもなく「唱歌」。学校教育ってレベルからの浸透だもんね。
唱歌の歴史
」で書いたように、唱歌集の編纂の過程で、西洋のメロディーに日本語の歌詞をのせるという和魂洋才の作業が行われたんだけど、なんとね、小学唱歌集初編に収録されている全33曲のうち1/3くらいは賛美歌のメロディーなんだよ。

音楽取調掛で唱歌の編纂に従事したルーサー・ホワイティング・メーソンって人は、高名な音楽教育家だったんだけど、牧師志望の敬虔なクリスチャンでもあったらしいんだよね。そのメーソンが唱歌集の選曲をするってんだから、こりゃもうどうしたって賛美歌が混じってくるはずなのさ。で、その時代に、学校で教える歌に賛美歌を使うなんて、とんでもないことだったわけで、彼らは明治政府に気付かれないようにこっそり導入したんだそうな。でも、それってそんなに難しいことじゃなかったのかも。当時の政府のお役人は曲より詞を重要視してたみたいだし。西洋音楽理解できないからさ。。

えーっとね、つまり日本の唱歌がお手本にしたのは賛美歌だったと。そういうことなんだってさ。

おまけ:

「賛美歌」と「讃美歌」の表記の違い。

一般的には「賛美歌」を使うんだけど、賛美歌集の書名や団体名などの固有名詞には「讃美歌」を使うことが多いみたいだね。

次回は「蛍雪の功」です

NHK紅白歌合戦

えーっと

今回は予定通り「紅白歌合戦」についてなんだけど、

詳しく説明しなくても知ってるよね?

じゃあ、そういうことで・・・

次回は「賛美歌」です


2005/11/30 追記

「NHK紅白歌合戦」は、毎年大晦日にNHKで放映される歌番組であります。略称「紅白」。
白組(男性歌手)と紅組(女性歌手)に分かれて、対抗形式でなにかを競い合うんだけど、何を競ってるんだっけ?

 

1945年に前身となる「紅白音楽試合」がラジオで放送。
1951年に「紅白歌合戦」第1回放送。当初は正月番組でした。
第4回からテレビ放送されるようになり、放送日も大晦日に変わりました。

 

で、「紅白」のエンディングは出演者と観客で「蛍の光」を合唱して最後を飾るのが恒例となっているんですが、いつからなんでしょうね? 第1回から? 誰か教えて。

 
「紅白」といえば故藤山一郎さん。ずっと「蛍の光」の指揮をしていましたよね。有名な逸話ですが、藤山さんって自分では「蛍の光」は歌わなかったそうです。言葉のアクセントを大切にしていたので「こんな日本語のアクセントとかけ離れた歌は歌えません」ということだったようです。
そういえば「蛍の光」って曲名もヘンなアクセントで呼ぶのが一般的だよねえ。「ほたる」の「ほ」にアクセントが付くべきなのに、「たる」に付いちゃってるっていうか、平板になってるよねえ。

 

「紅白」も近年は視聴率がだいぶ落ち込んでいるという話ですが、日本の年末の風物詩として頑張ってもらいたいものです。自分も10年以上みてないけどね。ごめんね。

ヨナ抜き

今回は「ヨナ抜き音階」について。
音階っていうと、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ の7音階が思い浮かぶよね。明治の頃には、これを ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ と呼んでいたんだってさ。つまり「ヨナ抜き」とは、ヨとナ(ファとシ)を抜いた5音で構成された音階のことをいうんだよ。

初期の小学唱歌は、そのほとんどが「ヨナ抜き長音階」。

当時の日本人はファとシの音程がうまくとれなかったから「容易き歌曲を用ひて、五音以下の単音唱歌を授け…」ってわけ。

なぜ長音階かといえば、音楽取調掛長の伊沢修二が、長音階は健全な精神を育てるが短音階は暗く無力を産むから教育に用いる曲は長音階にすべし、ってなこと言ったわけで。

そういうわけで日本の音楽はヨナ抜きだらけになっていったのだな。

これによって日本人の音楽的感性の基盤が変わったんだってさ。

歌謡曲でもヨナ抜き音階ベースの曲がけっこうヒットしてるみたい。
演歌にもヨナ抜きは多いみたいだしね。

ちなみに、琉球音階も5音音階で、こちらは ド・ミ・ファ・ソ・シ の5音。この5音でテキトーに鍵盤叩いただけで沖縄っぽくなるから、音階っておもしろい。

童謡の誕生

ねえねえ、7月1日って何の日か知ってる?
えっとね、日本童謡協会が制定した「童謡の日」なんだよ。
どうして7月1日なのかっていうと、1918年(大正7年)のこの日に、童話や童謡を掲載した児童文芸誌「赤い鳥」が創刊されたからなんだ。この本を起点に「童謡運動」が起こって、次々と童謡専門誌が創刊されていったんだよ。

童謡運動ってのはね、唱歌を批判することから始まった文化運動みたいなもの。賛同者には当時の一流作家や詩人さんたちがたくさんいたんだよ。その芸術家さんたちの唱歌批判がね、かなり辛辣。というか、こきおろしだね。「低級な愚かなものばかり」「美なく生命なく童心なきもの」「不自然極まる」「おそろしい罪悪」「日本の児童は入学の当初から呪はれている」などなど。

 

唱歌の何がそんなに批判されたのかっていうと、唱歌の歴史
でも書いたように、唱歌というものが軍国主義的教育のための手段・道具だったというのが、まずひとつ。それから、子どもに理解できないような難解な歌詞が多い。はなはだしく芸術味に欠ける。てな具合。

だから童謡は、「芸術的香気の高い、子どものための創作歌謡でなければならない」という理念の下に、「現代第一流の芸術家の真摯なる努力を集めて」作られていったんだ。

そして生まれた童謡の数々。

「かなりや」 西條八十/成田為三
 うたをわすれたかなりやは
「夕焼け小焼け」 中村雨紅/草川信
 ゆうやけこやけで ひがくれて
「七つの子」 野口雨情/本居長世
 からす なぜなくの
「どんぐりころころ」 青木存義/梁田貞
 どんぐりころころ どんぶりこ
「ゆりかごの唄」 北原白秋/草川信
 ゆりかごの うたを かなりやがうたうよ
「月の沙漠」 加藤まさを/佐々木すぐる

 つきのさばくを はるばると

など、みなさんご存知の歌がたくさん。

まとめ。

唱歌に対する批判や反感から童謡は誕生したのである。

今回はこれにておしまい。

音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)

1879年(明治12年)明治政府が音楽教育実施のために文部省に設置。唱歌の作成・編纂、内外の音楽の調査・研究、西洋音楽家や音楽教育者の育成などを行った。

初代所長には伊沢修二が任命され、米国で高名な音楽教育家であり伊沢の留学時の師でもあるルーサー・ホワイティング・メーソンが教師として招聘された。
音楽取調掛は、
1887年(明治20年)に「東京音楽学校」と改称。
1949年(昭和24年)国立学校設置法施行発布により「東京美術学校」と合併、東京芸術大学音楽学部となる。