最近聴いた曲

「別れ」

今日は手を取り語れども
明日は雲居(くもい)のよその空
行くもとまるも国のため
勇み進めて行けよ君

名残つきねどすこやかに
御稜威(みいつ)かしこみ戴(いただ)きて
八重の潮路も安らけく
重き務めをつくせかし

残る煙の絶え絶えに
消えゆく山の影淡く
仰ぎ馴れたる富士の嶺(ね)も
別れを空に送るらん

著作権消滅

蛍雪の功

むか~しむかしのおはなし。
中国の晋[しん]の時代(三国志のすぐ後の時代)に、勤勉な車胤[しゃいん]という若者がいました。学問大好き、読書大好きのおりこうさんです。でも、悲しいかな、生まれたのは貧乏なおうち。夜に灯す明かりの油すら買えません。そこで車胤は、何十匹もの蛍を袋に詰め込んで、その明かりで本を読んでお勉強したのです。きっと毎晩蛍狩り。

 

同じ時代に、孫康[そんこう]という、やはり勤勉で貧乏で油の買えない若者がいました。孫康は庭に雪を積んで窓を開け、その雪明かりでお勉強したのです。きっと毎晩凍死寸前。

 

苦学の甲斐あって、二人ともものすごくえらいお役人さんに出世したんだってさ。
めでたしめでたし。

といった故事からできたのが
蛍雪の功という成語。
ですから、

 

蛍雪の功 → 苦学した成果 【岩波書店 広辞苑第五版】

 

ということになります。


2005/11/30 追記

 

けい‐せつ【蛍雪】
[蒙求「孫康映雪、車胤聚蛍」](晋の車胤は貧乏で灯油が買えず、袋に蛍を集めてその光で書を読み、孫康もやはり貧しかったため、雪明りで書を読んだという故事による) 辛苦して学問すること。苦学。蛍窓。
【岩波書店 広辞苑第五版】

もうぎゅう【蒙求】
(周易蒙卦「童蒙我に求む」による) 児童・初学者用教科書。唐の李瀚撰。3巻。中国古代から南北朝までの有名な人物の、類似する言行二つずつを配して4字句の韻語で記し、経・史・子類中の故実を知るのに便にした書。計596句。「孫康映雪、車胤聚蛍」の類。唐~元代、広く使われ、日本でも古くより流布。
【岩波書店 広辞苑第五版】

稲垣千頴(いながき・ちかい)

国文学者で
東京師範学校の教員で
音楽取調掛に参加して
小学唱歌集の作詞をした。
生年不詳
没年不詳

 

らしい。

琉球処分

明治初期までの500年間、沖縄(琉球王国)は中国と冊封関係にあった。
冊封とは、王位を認める辞令である。つまり、中国皇帝の冊封によって琉球王国の王位が授けられるという関係が続いていたのである。

 

1609年(慶長14年)島津氏(薩摩藩)は、武力によって琉球王国を侵略した。
これによって琉球は徳川幕府の体制に組み込まれることとなる。
だが、実質的には薩摩藩の支配下に置かれながらも、「琉球王国」として独立国家のように扱われた。幕府と薩摩藩にとっては、その方が有益だったからだ。清(中国)には琉球と薩摩藩との関係を隠し、冊封関係を続けさせて、それに伴う貿易の利益の上前をはねようという魂胆である。
庶民は重税に苦しみ、餓死者なども多く出たという。

 

名目上は清に属しながら徳川幕府の支配を受けるという状態は250年以上続く。

 

明治維新後、明治政府は琉球を日本帝国という版図に組み込むために、琉球王国の解体を画策する。
この琉球王国解体への明治政府による一連の処置を琉球処分という。

 
明治政府はまず、廃藩置県によって琉球国を鹿児島県の管轄下とし、翌1872年(明治5年)には「琉球藩」とした。

清はこれに抗議した。古来より琉球は清に属していたわけだから、当然のことだろう。
だが、ここで、明治政府に都合のよい事件が起こっている。宮古島の漁民が台風で遭難し、台湾に漂着したのだが、そのうちの54名が台湾原住民によって殺害されたのだ。その報復として明治政府は1874年(明治7年)に台湾出兵を行ない、原住民族を攻撃した。そのうえで、この報復が正当なものであると、清に認めさせた。それを根拠にして、「清は琉球が日本領であることを認めたのだ」と、さらに琉球処分をおしすすめていった。
最終的に明治政府は、1879年(明治12年)軍隊と警官隊を琉球に派遣。強制的に琉球王朝を解体し、沖縄県を設置した。

沖縄の悲しい歴史のひとつである。

千島樺太交換条約(サンクトペテルブルグ条約)

ねえねえ、千島列島ってわかる?
そう、北海道の東の根室海峡からロシアのカムチャツカ半島まで点々と続いている、あの島々のことね。
じゃあ、樺太(からふと)は?
これも北の地だね。日本最北端のモニュメントが建つ宗谷岬の北から細長く伸びる大きな島。現在は一般的に「サハリン」と呼ぶ。サハリンはロシア語ね。

ってことで、じゃあ、
江戸時代の末期から始めようか。

まず、千島列島の方ね。
1855年(安政元年)日露和親条約(下田条約)が日本とロシアの間で結ばれて、択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間が国境線となったんだ。大雑把にみてこの時点での日本領は、北海道東端~カムチャツカ半島間の1/3の距離までってところかな。残り2/3はロシア領。

次に、サハリン(樺太)。
江戸時代には日露間での領土争いがなんだかんだとあったんだけど、それは省略して、っと。
1867年(慶応3年)江戸時代末期も末期の大政奉還の年に、幕府が「樺太島仮規則」に調印。それによってサハリンは、日本とロシアが共同管理する島になったんだ。ってことは両国の国民が雑居してたってことだね。

そして1875年(明治8年)、千島樺太交換条約
日本政府はロシア政府との交渉の末、日露両国民が雑居していたサハリンの権利を放棄する代わりに、ロシアが領有していた千島列島すべてを日本の領土としたんだ。この時点で、サハリン全域がロシア領、千島列島全島が日本領となったわけ。

その後、
1905年(明治38年)日露戦争後には、サハリンの南半分(南樺太)も日本領となるが、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)には、サンフランシスコ条約によって日本は樺太と千島列島の領有権を放棄することとなる。
で、
このとき放棄した千島列島の範囲をめぐっての北方領土問題が今なお続いていると、まあ、そういうことで今回は終了。。

次回はずーっと南に飛ぶよ!